2021/11/23 昼 思考の垂れ流し

今日はお休みの日。この頃思うのは、自分は映像や音声情報が本当に苦手だなということ。在宅勤務に慣れる前は「在宅勤務なら映画を垂れ流し放題」みたいな邪な考えを持ったりしたこともあるけど、実際それやると全然集中できないので結局やらなかった。休みの日でさえ動画を垂れ流すのを途中で辞めてしまう。Youtube Redに加入してるので音楽を聴き放題でもあるのだけど、その音楽でさえ聴く習慣が定着しない。音の無い世界に慣れてしまっている。思えば自分が音楽やポッドキャストを聴くのはもっぱら外出する時で、聴きたくない音を聴かなくて済むように聴いてるフシがあるかもしれない。何も聴かなくて済む環境ではわざわざ映像や音楽を流さない。筒井康隆ショートショートに『賑やかな未来』というものがあったけど、あの小説に描かれていた未来と同じで、コンテンツが何も存在しない状況こそが究極のコンテンツなのかもしれない。

2021/11/22 朝 思考の垂れ流し

朝。風呂を沸かそうとするが、昨日の水が入っているのでまず水抜きする作業から始める。そこからゴミ出しなど別の作業に取りかかり、風呂のお湯を張ることを忘れる。いつもそうだ。待ちタスクを放置してしまう。そもそも風呂をあがった後すぐにお湯を抜いていればこんなことで悩むことも無いのだけど、ついつい忘れてしまう。客観的に自分の生活を振り返ると、色々と非効率なところが多い。だからといってそこを改善してどれだけ自分の生活が豊かになるかと言えば、それほどでもないと思う。

外では雨が降っている。雨の日は仄かに体調が悪い。低気圧のせいかもしれない。子供の頃は雨の日は体調が~と意識したことはなかった。体質が変わったのか、それとも自覚していなかったのか。

かけ時計を買った。まだ届いていない。一日中パソコンの前にいるので時間を確認できないことは無いのだが、注目するという行為を伴わずにただぼんやりと時間が頭の片隅に入る状況を作り出したかった。リモートで仕事するようになって、時間の管理に追われることが多くなった。リアルで行う会議では場所の移動などの準備行動が必ず伴うが、リモートの会議だとそれが無い。だから心の準備ができないまま会議に突入することが多くなった。それにまだ慣れない。だから時計によって心の準備をする時間を確保する必要がある。ジョジョ6部の敵も言っていたが、人は覚悟することで困難を乗り越えられる。まぁ困難と言うほどでも無いのだが、やっぱり意識のスイッチを切り替える時間が欲しい。

風呂が沸いた。ほぼ同じタイミングでご飯も炊けた。まずは風呂に入ろう。

2021/11/21 夜 思考の垂れ流し

テレビが恋しい。テレビを観なくなって10年以上経つ。15年くらいかもしれない。長いことテレビを観なかったことで、自分の脳はテレビを受け付けなくなった。たまに実家に帰った時テレビが鳴っていると、どうもイライラしてしまう。民放に限って言えばどの番組を観てもあまり興味が持てない。だけども時々テレビが恋しくなる。夕方に車で信号待ちをしていると、前の車の後部座席のテレビモニターに『ちびまる子ちゃん』が映っていた。なんか無性にテレビを観たくなった。日曜日の夕方にちびまる子ちゃんを観るという体験をしたい。でも仮に今の自分がテレビを買ってきて、日曜日の夕方にちびまる子ちゃんを観たとして、自分が求めているあの感情を引き出すことができるかと言えば、なんか違う気がする。なんか違うんだ。テレビが楽しみだったあの頃の感覚はもう戻ってこない。ちびまる子ちゃんが観たければAmazonプライムか何かで好きなだけ観れば良い。そうじゃないんだ。小学生か、せめて中学生の頃に戻ってちびまる子ちゃんを観たいんだ。ちびまる子ちゃんを観て、サザエさんを観て、こち亀を観たいんだ。コーンに生まれたこの命シャキッと咲かせてみせたいんだ。

2021/11/20 夜 思考の垂れ流し

劇場アニメ閃光のハサウェイが面白かったので積んでいた原作小説を読み始めたのだけど、どうも読みづらい。アニメを先に観ていなければ内容をしっかり理解できていたかどうかちょっと自信が無い。これではまだアニメ化されていない中編・後編を読んだ時に内容をしっかり理解できるか心配だ。疲れているのか、自分の読解力が低いのか。そう思って朝井リョウの小説を読み始めたら、スルスルと内容が頭に入ってきた。この違いは何だろう。Amazon閃光のハサウェイの原作小説のレビューを見ると賛否両論だ。「読みづらい」という意見と「富野由悠季の小説にしては読みやすい」という意見で割れている。思うに富野由悠季は『映像の人』なのだと思う。どこかで聴いた話だけど、ラジオの世界では、会話に参加する人数は3人くらいが限界らしい。それ以上の人数になると誰が話しているのか分からなくなるそうだ。ひな壇に10人くらい芸人が並ぶテレビとは大違いだ。おそらく小説もラジオと似たような側面があるのだと思う。ひとつのシーンに登場する人数の限界は3人くらい。どうしても人数を増やさなければならない場合は、主観を主人公に絞り話の中心軸を作る。そうすれば破綻しない。でも富野由悠季はアニメの方法論で小説を書くから、1つのシーンに同時に10人くらい登場させ、しかも主観がコロコロと変わる。それでは誰が誰に話しているのか分からない。アニメでは視線の演技ができるけど、小説ではそれがない。メディアの特性の問題だ。まぁ富野由悠季も小説家になりたくて小説を書いたのでは無く、映像化を見据えた上で小説を書いていたのだろう。であるならば、小説で読むよりアニメで見た方が良いかもしれないと思えてきた。

2021/11/18 夜 思考の垂れ流し

自分のまったく知らない分野だと「専門家の意見に従おう」と最初から思うのだけど、なまじ趣味で少しかじってるとその辺のリスペクトが足りなくなり「自分もできるぞ!」と思ってしまいがちになる。まぁその意気込みは大切ではあるんだけど、やっぱりプロの仕事を間近で見るとプロだけあってそりゃ凄いなぁと感心する今日この頃。自分は昔から自前主義に陥りがちなので、自分の能力が自分が生み出すものの限界になってしまう。もっと周りを頼らねば。

最近考えているのは、萌えコラボ、○○女子、アンパンマンには同じ機能があるということ。商品でも娯楽でもサービスでも、それらには主要ターゲット層というのがある。作り手が意識していなくてもそれは垢のようにこびりつき、ターゲット層を自動的に形作る。それはマーケティング上メリットでもあるのだけど、一方でターゲット層以外には敷居が高くなるという副作用がある。その副作用を打ち消す「毒をもって毒を制す」解毒剤が萌えコラボや○○女子、アンパンマンなのだと思う。幼児はアンパンマンが描かれている商品が好きだ。アンパンマンそのものが好きというのもあるけれど、アンパンマンのイラストが描かれている商品はイコール幼児が使っても良い商品という免状でもある。スナック菓子にアンパンマンが描かれていれば幼児が食べても良いし、「お酒のおつまみに」という文言が書かれていればオッサンが買っても恥ずかしくない。たとえ中身が同じでもその2つの層は滅多に交わらない。同じお菓子でもパッケージ次第で売れる層が変わってくる。では自分が今外に向けてアピールしようとしているものはどういう見えない障壁があって、その障壁の外側にはどういう層がいるのだろう。そういうことを時々考える。

2021/11/15 夜 思考の垂れ流し

椅子を買った。まだ届いてない。でも店頭で座った感じなかなか良かったように思う。すこし前のめりになっても背中がちゃんとカバーされてるような感じがしたし、足もしっかり地面についた。そうは言っても、この世に生を享けてからだいぶ経つのに未だに椅子に座ることに慣れないでいる。だから新しい椅子に不安もある。これまでどんな椅子に座っても慣れなかった。もし自分が椅子に座ることに適応できていたら、もう少し社会的に成功していたと思う。そのくらい椅子に抵抗感がある。今年のはじめに立てた目標は「毎日椅子に座ること」だった。仕事ではちゃんと座っている。でもプライベートではあまり座れていない。年末が近づいてきたので、これはやはり新しい椅子に賭けてみるしか無い。

2021/11/5 夜 思考の垂れ流し

散歩から帰ってきた。Pikmin Bloomというスマホアプリを始まったことを契機に少し歩くようにしている。このゲーム、遊びはじめの頃は「ポケモンGoから収集要素を削って万歩計に振り切った感じのアプリだなぁ」という感想だったが、遊び続けて要素が解禁されていくとしっかりピクミンらしさが感じられるようになってきた。本家の「夜になったら全滅」というルールがないので緊張感としてはイマイチだが、単位時間の中でリソース分配する感じは本家ピクミンのエッセンスがしっかり入っている。今日は調子に乗って前職の職場の付近まで歩いた結果、1万2千歩まで到達した。つい一か月くらい前まではこの距離を毎日歩いていたんだよなぁと思うと、運動不足をなんとかせねばと考えてしまう。

プログラミング言語の実装というものに最近興味を持ちだしている。『Rubyで作るRuby』という本をもとに手を動かしているのだが、この本は非常に良い。プログラミング言語初心者向けに書かれているので内容は非常に敷居が低く、それでいてあっさり言語が作れてしまう。1時間くらいで簡単な電卓が作れてしまった。2時間後には変数への代入もできた。最初のハードルとなるASTをライブラリに丸投げしているからという面もあるが、こういうのは「これって面白い」と感じられるまで到達することが大切なので、面倒なことはその後に学ぶのも良いのかもしれない。