2021/11/20 夜 思考の垂れ流し

劇場アニメ閃光のハサウェイが面白かったので積んでいた原作小説を読み始めたのだけど、どうも読みづらい。アニメを先に観ていなければ内容をしっかり理解できていたかどうかちょっと自信が無い。これではまだアニメ化されていない中編・後編を読んだ時に内容をしっかり理解できるか心配だ。疲れているのか、自分の読解力が低いのか。そう思って朝井リョウの小説を読み始めたら、スルスルと内容が頭に入ってきた。この違いは何だろう。Amazon閃光のハサウェイの原作小説のレビューを見ると賛否両論だ。「読みづらい」という意見と「富野由悠季の小説にしては読みやすい」という意見で割れている。思うに富野由悠季は『映像の人』なのだと思う。どこかで聴いた話だけど、ラジオの世界では、会話に参加する人数は3人くらいが限界らしい。それ以上の人数になると誰が話しているのか分からなくなるそうだ。ひな壇に10人くらい芸人が並ぶテレビとは大違いだ。おそらく小説もラジオと似たような側面があるのだと思う。ひとつのシーンに登場する人数の限界は3人くらい。どうしても人数を増やさなければならない場合は、主観を主人公に絞り話の中心軸を作る。そうすれば破綻しない。でも富野由悠季はアニメの方法論で小説を書くから、1つのシーンに同時に10人くらい登場させ、しかも主観がコロコロと変わる。それでは誰が誰に話しているのか分からない。アニメでは視線の演技ができるけど、小説ではそれがない。メディアの特性の問題だ。まぁ富野由悠季も小説家になりたくて小説を書いたのでは無く、映像化を見据えた上で小説を書いていたのだろう。であるならば、小説で読むよりアニメで見た方が良いかもしれないと思えてきた。